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「風呂は僕にとって現実世界とそうでない世界の境界線なのかもしれない」フォトグラファー上田優紀が記す死の世界のお風呂

世界中を飛びまわり、およそ人間の手付かずの僻地や極地に果敢に挑み、大自然の中でマナスルやエベレストなど神々しい地球の姿を写真に収めるネイチャーフォトグラファーの上田優紀さんのカテゴリーキーワードは「インスピレーション」。「エベレストで入るお風呂」と聞いただけで、なんだかワクワクする。これはきっと究極の人生体験になりそう。

亀田誠治

上田優紀

1988年、和歌山県出身。大学を卒業後、24歳の時に世界一周の旅に出発し、1年半かけて45カ国を周る。2016年よりフリーランスとなり世界中の極地、僻地を旅しながら撮影を行なっている。近年はヒマラヤにて8000m峰を中心に撮影。2018年アマ・ダブラム(6856m)、2019年マナスル(8163m)登頂、2021年エベレスト(8848m)登頂。

毎日、風呂に浸かり、その日の疲れを流す。そんな日常がどれだけ幸せなことか知っている人は少ない。

5月上旬、僕はヒマラヤの奥地、エベレストのベースキャンプにいた。テントの目の前に広がる巨大なアイスフォールでは、毎日のように雪崩が起き、爆音を立てて氷河が崩落していた。「あそこにいたら死ぬところだったな。」なんて何度考えたことだろう。ここでは、当たり前のことが当たり前でなくなる。氷河の上にテントを張り、電気はソーラーパネルで充電、水は雪を煮沸して飲む。もちろん風呂なんてものはない。あるのは極大なヒマラヤの山々と氷河、それと濃紺の空。目指す世界最高の頂はまだ遥かに遠い。ベースキャンプに入ってもう1ヶ月近くが過ぎようとしていた。

 

年に数回こんなことをしている。写真家として1〜2ヶ月間、人間世界を離れて自然の中でテント生活をしながら撮影をする。ここ数年はヒマラヤをテーマに撮影していて、もちろん山も登る。安全圏と言える外の世界からいくら山を撮っていても、見えてくるのは表面だけで、山を登って、身体で体感してはじめて捉えられる世界があるのだ。なので、エベレストを撮るというからにはエベレストに登る。今回、僕がここに来たのは世界最高峰の登頂を果たすためだった。

ベースキャンプの風景

生と死の境界線と金タライの風呂

2ヶ月近くに及ぶエベレスト遠征では、最初の約1ヶ月を本番の準備期間とする。デスゾーンとも呼ばれる生と死の境界線を生き延びるために、まずは超高所に身体を順応させなくてはいけない。実は、この1ヶ月がすごく辛い。なにせ、まだ高所に慣れていないのに標高6,000メートルや7,000メートルという高さまで登って、無理やり身体を順応させていく。それも一度ではない。一回登っては、身体を休めるために標高の低い(と言っても5,200メートルはあるが)ベースキャンプまで戻って、また登る。そんなことを何度も繰り返すことで高所には慣れるが、身体は当然ダメージを負う。順応のために登って、ベースキャンプに降りてきた時、ジャケットを脱ぐことさえ億劫なほどに疲れ切っていた。だが、そんな高所順応の全てのステージを終えると唯一の楽しみが待っている。それが風呂だ。

 

もう一度言うが、ここは氷河の上に設置されたエベレストのベースキャンプ。もちろん湯船はない。あるのは1つの金タライ。それにお湯を張る。猫が入るのではない。人が入る。果たしてこれを湯船と呼ぶか少し悩むが、僕にとっては立派な風呂だ。では、どうやって入るのか。まずはタライに入る。もちろん足首までしかお湯はない。それから足元のお湯をマグカップですくい、頭にかける。石鹸で髪を、それから体をこすり、再び足元のお湯をすくって洗い流す。コツは手早く洗い流すこと。悠長にしていようものならすぐに湯冷めする。忘れてはいけないが、ここは標高は5200メートル。気温は氷点下以上になることさえ稀なのだ。時間にして2分。インスタントラーメンでも、もう少し長くお湯に浸かってる。それでも体を洗い、湯で流す。たったこれだけで、こんなにも幸せになれるのはどうしてだろう。非日常で日常を思い出すからだろうか。または自分が人間であることを思い出させてくれるからだろうか。異様なほどのストレスから一瞬だけ解放される。たった一杯のタライの湯船でも、エベレストではまるで砂漠に現れたオアシスのような存在なのだ。風呂とは言えない風呂から出ると気持ちが前向きになる。さっきまでボロボロだったのが、嘘のように気合いが入る。さぁ行こう。世界で一番高い場所へ。

そびえ立つエベレスト

「僕より高いものはもうこの地球に存在しなかった」

いよいよ世界最高峰を目指す旅が始まる。辛かった高所順応も、1ヶ月のテント生活も、もっと言えば4年前、エベレストを目指してから全ての時間がこの登山のためにあった。やれることは全部やってきた。それでも、エベレストはそう簡単に登らせてはくれない。常に崩落を続けるアイスフォール、悪天候による想定外のビバーク、死の領域デスゾーン、強風、凍傷、高山病……。他の登山隊は次々に登頂を諦めてベースキャンプへ撤退するなか、一縷の希望だけを胸にひとり足を進めていく。

 

一歩踏み出して三度息を吸う。数メートル進むのに何分もかかる。最後の稜線の先には空しかない。這うように進んで、なんとかそこに立つ。さっきまでの突風が嘘のように優しい風が吹いている。僕より高いものはもうこの地球に存在しなかった。

山頂から眺める景色

下山も決して容易ではなかった。想定よりも3日以上遅れてベースキャンプに戻ってきた時、体力も精神力ほとんど何も残っていなかった。ベースキャンプを出発してもう10日が経っていて、その間ずっと標高6,000メートル以上で過ごした。人間の身体はそんな環境で生きていられるようにはできていない。文字通り満身創痍。もう僕の体には何も残っておらず、自分のテントに倒れ込むとしばらく動くことすらできないほど消耗していた。

生きている実感を噛みしめたカトマンズの大衆浴場

6月上旬、ネパールの首都カトマンズへ戻ってきた。2ヶ月ぶりの下界。ヒマラヤ登山の後、街に戻るといつものルーティンがある。風呂だ。それも湯船につかる。ベースキャンプを離れる時から楽しみで楽しみでしょうがない。お気に入りの大衆浴場は10人は入れる大きな湯船とサウナがある。日本のスーパー銭湯のようになっていてかなり立派な作りなのだが、いつ行ってもなぜかお客さんは誰もいない。ひとりで風呂を楽しめるのはラッキーだけどいつか潰れてしまわないか少しだけ不安になる。

 

今回もカトマンズに戻ったその日に早速そこに向かった。今までで最長の遠征。もちろんその過酷さも過去最高と言って間違いはない。5月上旬にベースキャンプで風呂と定義しがたい風呂に入り、あれほどの快感だったのだ。湯船に浸かったらどうなってしまうのだろう。

 

前に来たのは1年前なのにスタッフの方が僕のことを覚えていてくれていた。「おかえりなさい。」という言葉がうれしい。脱衣場に行き、服を脱ぐと体全身の筋肉も落ち、だいぶ痩せこけている。腕の色は日焼けなのか、垢なのか真っ黒だ。ただ、今はこのやせ細った腕も足も少しだけ誇らしい。

 

風呂場に入る前のこの感情はなんと言えばいいのだろう。例えるなら、子どもの頃、クリスマスの朝にサンタさんからのプレゼントを開ける時のような気持ちだ。扉を開けるといつも通り誰もいない。独り占めだ。まず体を洗う。すでに気持ちいい。野犬のような匂いを発していた僕の体を石鹸のいい匂いが包んでいく。

 

体を清めて、いざ入湯。温めのお湯がやさしく、肩までつかるとつい吐息が漏れてしまう。あぁ戻ってきたのだな、という実感が湧いてくる。生きている、そんな当たり前の事実に気づく。同時に生死のストレスから解放されて涙が溢れそうになる。僕は自分が持っている全てを使って世界で一番高い場所に登って、そして生きて帰ってきた。登頂した時には感じなかった、生きている実感とほんの小さな達成感をたった一人、カトマンズの大浴場で噛み締めていた。

 

旅の終わりは風呂で〆る

風呂は僕にとって現実世界とそうでない世界の境界線なのかもしれない。人の暮らさない神の世界へ足を踏み入れ、生還したら必ず風呂に入る。風呂というものが気持ちを切り替え、時に勇気を、時に安らぎを与えてくれる。しばらく湯船に浸かっていると次はどこへ行こうかと思考が巡りはじめた。次はチベットの山を登ろうか、北極や砂漠を旅するのもおもしろそうだ。海にだって見たことのない自然がきっとある。どこに行くにしてもきっと僕はこれからもひとつの冒険を終えるたびにまた風呂に浸かるのだろう。

山頂から眺める朝日

ナビゲーターの声

僕たちが普段経験することのない過酷なエベレスト登山。登頂前に入るお風呂がタライに張ったお湯とは!世界最高峰の眼前にして身も心も清まるミニマムな時空。これこそつまり究極のお風呂ではないでしょうか。僕らの日常で浸かるお風呂とは全く様相が違うけど、僕は上田さんのインスピレーションから、人間は地球という星の小さな生き物であること、そこではさまざまな事象が生まれては消え、消えては生まれていくという「生の無限ループ」を感じることができました。上田さんの言葉や写真からは、生きていることへの素直な感謝の気持ちが伝わってきます。今、地球では気候変動が起こり、時に疫病が流行り、時に争いが起こっています。それでも僕らは今ある当たり前の幸せを素直に受け止めて前を向いて生きなければと思いました。誰もが自分の心の中の金のタライを大切に思う。そんな世界になると素敵ですね。

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