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「浮世の垢を落とす極楽浄土」銭湯研究家町田忍と探る今昔銭湯から見る日本人のお風呂観

庶民文化研究家の町田忍さんは「浮世の垢を落とす極楽浄土」というアゲアゲのタイトルで、まさに「日本銭湯記」とも呼べる歴史をフレンドリーに紹介してくださっています。お風呂に浸かることの本質を、今でも町に銭湯が存在する意味を、日本人のアイデンティティとクロスさせながら愉快に伝えてくれます。

亀田誠治

町田忍

1950年、東京生まれ。(社)日本銭湯文化協会理事。大学卒業後、警視庁警察官を経て、庶民文化における風俗意匠の研究を続ける。パッケージ、空き缶類をはじめ、さまざまなものを多岐にわたって収集し、それらをテーマにあらゆる角度から調査研究している。とくに銭湯研究にかけては第一人者で、自他ともに認める銭湯博士。

銭湯の歴史:江戸時代の銭湯は「裸の付き合い」ができる憩いの場

日本人は世界に類を見ない、お風呂が大好きな民族といえます。その理由について考えたことはありますか?一説では、日本の高温多湿な気候が関係していると言われていますが、はたしてそれだけでしょうか。日本人にとって、浮世の垢を落とす極楽浄土!?銭湯の文化と歴史を紐解きながら、日本人のお風呂観を探っていきましょう。

 

日本人にとって、馴染み深い「銭湯」。まずは、その歴史についてご説明します。料金を徴収して入浴を提供するという、いわば商売としての「銭湯」が登場したのは、12世紀前半にさかのぼります。世は、平安時代末期。今昔物語集」に、「東山へ湯浴みにとて人を誘ひ」とあることから、すでに平安時代の京都には、その原型なる施設があったと考えられています。

 

庶民の日常生活においての銭湯の始まりは、徳川家康が江戸入りした翌年の天正19年(1591年)、伊勢出身の与市という人物が銭湯風呂を営むと「慶長見聞集」に記されています。このときの銭湯は、蒸し風呂形式で煙がひどく、目を開けることが出来ず熱湯で入れなかったようです。江戸の街は大火が多く、燃料の木材が入手しやすいことから、しだいに湯に浸かる形式のみにしぼられるようになりました。

 

また、当時の仕事は力仕事が多く、筋肉痛が絶えない日々です。筋肉痛には、高温湯にさっと入ることが良いとされていました。「江戸っ子の熱湯好き」は、豊富な燃料とハードな職場環境が背景にあるようです。ちなみに、現在でも東京の銭湯の湯温は約42度と全国平均より高く、当時の名残があります。

 

そこから、急速に数が増え、約500軒ほどにまで達します。現在、都内における銭湯の数が約450軒ですので、それより多いことになります。江戸の人口は約100万と言われている時代。その多さから、いかに江戸の人が銭湯好きであったかが理解できます。当時の江戸は、風が強く土埃がひどかったため入浴が好まれましたが、屋敷内に風呂があったのは武家など一握りに過ぎません。そのため、安価に利用できる銭湯は大変人気の娯楽でした。

 

『職人尽絵詞』(鍬形蕙斎著)国立国会図書館オンライン

そんな当時の銭湯は、身分に関係なく裸の付き合いができる憩いの場でした。武士や裕福な商人から労働者階級まで漏れなく銭湯通いをしていました。武士たちは、銭湯に入る前に身につけている刀を外します。外の世界では、社会的地位を確立し威厳を見せている人々も、ひとたび湯に浸かれば、一人の人間に戻ります。そこは、身分の垣根が存在しない唯一のパブリックな空間でした。

 

垣根がないのは身分だけではありません。今では考えられませんが、当時は「入り込み湯」と呼ばれる混浴が主流でした。また、サービスの形式が広がり、客の背中を流し髪をすく「湯女(ゆな)」が大活躍します。昼は客の体を流し、夕方を境に三味線や茶を振る舞う。湯女風呂の人気は凄く、吉原遊廓が寂れるほどだったと言われています。

 

しかし、そんな銭湯も時代とともに変化せざるをえない事態が起きました。有名なペリー艦隊の黒船来航です。江戸時代の混浴銭湯を見た船員が記した日記に、「日本人はなんと野蛮な民族か。」と書かれた記録が残っていることから、日本独自の文化に対し異文化圏から指摘が入ってしまいました。

 

もっとも、それ以前から混浴は風紀が乱れると幕府が規制した事もありましたが、全く守られていませんでした。時代が変わり、文明開花した明治5年に、新政府は「入り込み湯(混浴)禁止令」を出したものの、完全な別浴となるまで数年はかかったといいます。江戸時代に銭湯ができて実に200余年、銭湯は混浴文化が続いていたことになります。

『好色一代男』(井原西鶴著)国立国会図書館オンライン

現代の銭湯:様々な役割を持つ地域のコミュニティー

現代においても、銭湯には様々な役目があると、私は常々思っています。江戸時代から引き継がれる、人々の垣根を取り払う場所だからこそ、担える役割があるのです。

 

まずひとつは、教育の場。私は幼い頃、体にせっけんを塗って滑ったり、浴場を走ったりして遊んでいると、怖いおじさんに一喝された記憶があります。銭湯は、自分だけの場所ではありません。地域の人たちが、同じ空間で同じ湯に浸かり、1日の疲れを癒す。そんな場所だからこそ、何をすれば人が嫌がるのか、そこにはどんなルールがあるのかを教えてくれました。また、当時は子どもが親の背中を洗うシーンもよく見かけました。私の父は、シベリアに抑留されていたときに負った大きな傷が背中にありました。父と銭湯に入ったのはもう60年以上前のことですが、いまでも印象深く記憶に残っています。父の体に刻まれた歴史をまじまじと見ることができたのも、銭湯という空間を一緒に過ごしたからでした。

さらには、情報交換の場でもあります。特に、港町には銭湯が多い傾向にあります。一箇所の銭湯から左右に一軒ずつ近くの銭湯が見えるほどひしめき合っていることもしばしば。例えば、長崎の茂木港を訪れた際には、そこの銭湯のおかみさんから「銭湯は塩にあたった体を洗うだけでなく、漁場の情報交換の場所でもある」との興味深い話を聞くことが出来ました。

撮影:稲荷湯(東京都北区)

撮影:稲荷湯(東京都北区)

撮影:稲荷湯(東京都北区)

撮影:稲荷湯(東京都北区)

撮影:稲荷湯(東京都北区)

浮世の垢を落とす極楽浄土

これまで江戸時代から現代まで、日本人と銭湯の関係をたどってきましたが、結局のところ、日本人が銭湯に入る究極の目的は、「浮世の垢」を落とす、という点にあるのではないでしょうか。今も昔も、裸になって湯に浸かるという行為になんら変化はありません。そう考えると、江戸時代も現代も大差がないですね。高級車から降り、腕時計を外し、スマートフォンを仕舞い、風呂に入れば、職業も年収もSNSのフォロワーも関係なく、そこにいるのはただ一人の人間です。そんなただ一人の人間が集まり、同じ湯に肩まで浸かります。社会のしがらみを取り払い、「浮世の垢」を落としてくれる、その演出をしてくれる空間が、銭湯なのです。のれんをくぐれば、極楽浄土。あぁ、はやく仕事を終わらせて、今日も銭湯に行ってきます。

撮影:稲荷湯(東京都北区)

ナビゲーターの声

町田さんの言う「浮世の垢を落とす極楽浄土」というお風呂の定義に心から共感します。今でもいうじゃないですか。「まあ、いろいろあったけど水に流して。」と。お正月がくるとそれまでとムードが変わるじゃないですか。夏祭りの盆踊りや花火で気分がアガるじゃないですか。どれも同じことなのかな。「浮世」を幸せに乗り越えていくには節目節目で「憂世」の強制リセットが必要なのです。それが庶民の毎日の生活の中でのお風呂なのかもしれません。そして銭湯から生まれるさまざまなコミュニティー。「裸のお付き合い」はコミュニケーションの必殺技なんだなぁと感じました。ちなみに僕も銭湯大好きでフラッと見つけた街の銭湯に浸かるとしあわせ万倍日になります。

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